神さまのおはなし

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*著者は、 いかなる宗教にも属していません *

「愛」とは「大好きであるという感情」のことだと、思ってください。

したがって「愛のある毎日」とは、「大好きなことがいっぱいの毎日」ということになります。

私たち日本人は「愛」と書くより、「大好き」と書いた方が理解しやすいかもしれません。

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(序章)二ール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」に出会って
1.神さまが人間にアクセスするところ
2.求めること、欲しいと願うこと
3.人が持つ創造の力、人の観察者である神、生まれた「悪魔」
4.愛とは、不安とは
2/205.魂の目的

(序章)「神との対話に出会って」

子どものころから、神さまはいると信じていました。
神さまは「全知全能」です。
神さまにできないことは何もないと、信じていました。
ですから、「悪魔がいて、神さまの邪魔をしている」とどこかで聞いて「あれ?」と思いました。
不可能なことがないはずの「神さま」が、邪魔をされる??
それって変じゃない?と、矛盾に疑問をもっていました。

宗教戦争というものがあったことを聞いて、また「あれ?」と思いました。
不可能なことがない神さまが、どうして人間に戦争を起こさせなければならないのだろうと、不思議でした。

日本にたくさんいらっしゃる「八百万(やおよろず)の神」も、信じていました。
地球を作り、人間を作った神さまは唯一無二の存在ですが、
その下にはとてもたくさんの神さまがいらっしゃるのだと、思っていました。

また、「人間は死んでしまったら、神さまになるんだよ」と、仏壇の前で手を合わせながら、
手を合わす理由を聞いた時におばあちゃんが言いました。
「人間も神さまになるんだ!でもどうして?」と、子どもにとっては大変素晴らしい教えでありながら、
その不可思議な教義に驚いたものです。

そして神さまはとてもとても優しいと、思っていました。
ひとりひとりを愛してくれて、何をしても許してくれるのだと、信じきっていました。
「神は愛である」とか・・そんな言葉をどこかで聞いたのでしょうか。
ですからここでも、他の神さま達を排除しようとする宗教戦争を、理解することができませんでした。

こんな風に、私が神さまについて疑問に思っていたことすべて、信じていたことすべてを、
ある一冊の本がきれいに矛盾を訂正し、事実を教え、子どもの直感で信じていたことの正確さを教えてくれました。
それが二ール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」という本です。
この本と出会って、どれほど安心したか知れません。

二ールは、神さまから得られた情報を広めるため「ヒューマニティーチーム」を
立ち上げることを読者に勧めていますが、私はこのブログで、神さまについて
「神との対話」から知りえたことを書いてみようと思いました。

私はキリスト教徒ではありません。でもイエス様が大好きですし、
チベット仏教や浄土真宗の教えを素晴らしいと思いますし、
お釈迦様や天照大神(あまてらすおおみかみ)、観音様や不動明王様も好きです。
八百万(やおよろず)の神々を認め、神々に守られている日本文化の影響を、私も充分に受けています。

そんな私の考えがあった上で、少しずつではありますが「神との対話」について書いていきます。

少しずつでも、読んだ方が神さまについて理解でき、私が安心できたように安心できますように。


心からの感謝と愛情を込めて。
すべての存在へ。

上に

1.「神さまが人間にアクセスするところ」

神さまは、ほぼ「話す」ことはしません。
なぜなら話すときに使われる「言葉」というものは、人間が作った記号であり、限られたことしか伝えられないからです。
私たちに何かを伝える時、間違って受け取られやすい「言葉」を、神さまはほとんど利用されません。

ですから神さまが人間に「コミュニケート」する時は、私たちの「感情」にアクセスします。
「自分がどう感じるのか」が、自分にとっての真実を教えてくれます。
・・・でも、自分の本当の感情を見つけることが、簡単な人と、そうでない人がいます。

また神さまは、私たちの「思考」にもアクセスします。
思考と感情は似ていますが、違うものです。
思考にはイメージ(画像)が使われます。

さらに、もっとも効果的なコミュニケーションの方法は「経験」です。
神さまが人間に経験を、与えてくれます。

このように神さまは、「人間は自分の中にある『感情』と『思考』と『経験』を、もっとも大切にするべきだ」と、教えてくれています。
自分の中のもの(感情や思考や経験)をないがしろにすると、神さまとは無関係なもの(他の言葉)の影響を受けることになってしまうからです。

ところで神さまは「わたしが発したものではない経験や感情、言葉が存在する」と、忠告しています。
それは「神さまが言った」と、神さまの名前を使って、人間達がたくさんの言葉を口にしたり、書き残したりしてきたからです。
長い間、神さまとは無関係なもの(言葉)によって、たくさんの思考や感情が支えられて、その結果、たくさんの経験が生まれてきました。

神からのメッセージとそうでないものを見分けることが、私たちにはできるのでしょうか。
次回に紹介したいと思います。

上に

神さまのお話し。
前回の話をまとめると、

1.人間は誰でも、神さまからのメッセージを受け取っています。

2.神さまは、「言葉」ではなくて、「感情」「思考」「経験」という手段で、ひとりひとりにコミュニケートしています。(自分の中に入って、自分の感情を確かめる…「自分」というものを知る重要性がここでも分かります)

3.これまでたくさんの人間が「神さまが言った」として、神さまが発したのではない「言葉」を残しています。(その影響は、大変大きなものです)


神さまからのメッセージと、そうでないものとの見分けかたについて、今日は書いていきます。

その違いを見分けることは、なかなかむずかしいのだそうです。
神さまは、「基本的なルールを素直に当てはめなければならない」と、書いていらっしゃいます。

「わたし(神)のメッセージは常に、あなたの最高の考え最もくもりのない言葉最も偉大な感情である。それ以外は、別の源から生じている」
また、「最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。最も偉大な感情、それはである」と。

つまり、神さまからのメッセージには、「喜び」と「真実」と「愛」が必ず含まれているということになります。

感情や思考、経験の中に、「喜びと真実と愛」が感じられれば、それは神からのもの。

例えば他の誰かから、上記の三つ以外の気持ちになってしまう言葉を与えられたとき、それは「神からのものではない」と判断することに、私はしています。
逆に私のところに来られる生徒さんたちには、この三つ(喜び、真実、愛)の「感覚」を得てもらおうと、気持ちを集中させています。
「神からのもの」は高波動で、必ず、誰もが癒されるはずだからです。

どのメッセージが神からのもので、どれが他からかを見分けることができれば、あとは神からのメッセージに耳を傾けるかどうかで、生活ががらりと変わってきます。

神からのメッセージは、素晴らしすぎて真実とは思えなかったり、難しすぎて従えないこともあるとのこと。また、単純な誤解もあるのだそうです。
一番力強いメッセージである「経験」は、とくに、無視されがちなんだそうです。
神さまは言っています。
「あなたがた(人間達)が経験に耳を傾けさえすれば、世界は今のようではなかったはずだ。経験に耳を傾けないから、あなたがたは何度も同じ経験を繰り返さなければならない」と。
しかし神さまは、「遅かれ早かれ、あなたがたは神のメッセージを受け取ることになる」と約束されています。
だから私たちは、安心して良いのでしょう。
「喜びと真実と愛」のあるメッセージを、必ず受け取ることができるのですから。

「神のもの」を見分けることが出来るようになれば、耳を傾け、それぞれに与えられた「ヒント」や「回答」に従って行動するのが、良いです。
最初は自分自身や周囲からの抵抗があったとしても、次第に何もかもが良くなっていきます。
毎日が健康的に、楽しくなります。


しかし、神さまは本当に、誰にも、どのような人にもコミュニケートしているのでしょうか。それとも、「特別な人」や「特別な時」にだけ、コミュニケートしているのでしょうか。そのことについて、次回は書きたいと思います。

上に

前回は、神からのメッセージには、必ず「喜びと真実と愛」が含まれると、紹介しました。
逆に考えれば、「喜びと真実と愛」が感じられない「誰か」からのメッセージは、決して神からのメッセージではありません。


「神さまがコミュニケートする、特別な人や特別な時があるのだろうか」という疑問には、神さまはこう答えています。
「すべての人は特別であり、すべての時は黄金である。他よりも特別な人、特別な時というものはない」

ですから、本当に誰でも、どのように世間で言われる人でも、自分をどれほど罪深いと感じている人でも、聞こうとする気持ちさえあれば、メッセージを受け取ることができます。
また、神からのメッセージは、時と場所を選びません。
私たちは神さまからのメッセージを聞くために、特別な場所、特別な時間をわざわざ設ける必要は、ないのです。
ただ自分の中にある「喜びと真実と愛」が感じられる「何か」に、アクセスしてみると良いのです。

私自身は、瞑想をして自分の心に耳を澄ます時を作ることもしますが、人と話していて直感的に「愛」を感じるものが浮かべば、それを表現することにしています。
愛を感じるものは、神さまからのものだと信じているからです。
それは、ストレートな愛情表現のこともあれば、笑いがいっぱいの可笑しなユーモアだったりもします。

神さまのメッセージが私にも聞けるんだ!と思うと、私はとても嬉しいですが、そうでない人たちが存在することを、神さまは指摘されています。
神さまからのメッセージを聞きたくない人に対して、その理由を神さまは次のように書いていらっしゃいます。
「自分自身が神のメッセージを受け取ったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。他人の解釈を受け入れているほうが、今この瞬間にも受け取っているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、はるかに楽で安全だ」と。

幸いなことに、私は自分に責任を持たせることに、それほどパワーを要しませんが、世の中にはそうでない人もたくさんいらっしゃるのでしょう。

続けて神さまは、「わたしが今、こうしてあなたのもとを訪れたのは、あなたの呼び声に応じたからだ」と、書かれています。
神さまは私たちが呼べば、応えてくれると言うのです。

神さまからのメッセージを受け取りたい方は、ぜひ今すぐにご自分の心に耳を傾けてみてください。そこに温かなものがあれば、それは神さまからのコミュニケーションでしょう。

何かに対する具体的な回答を得たいときも、自分の心に問いかける習慣をつければ、そこに回答を見い出しやすくなります。
・・・しかし、どうしても回答を得られない場合は、「知るのだ」と強く意志を持てば、時間が掛かっても必要な時に、「愛と喜びと真実」が含まれる回答が得られます。


神さまはこうして、誰にも、いつでもコミュニケートしていますが、例えばイエス様のように他の人たちよりもうまく神さまとコミュニケーションがとれる人たちがいるのは、なぜでしょうか。次回はこのことについて書きたいと思います。

上に

前回は、神さまとは、すべての人が、どんな時でもコミュニケーションを取ることができると、書きました。
自分の心に耳を傾け、そこに「喜びと真実と愛」が含まれるメッセージを感じ取ると良いのです。

昨日は神戸の友人宅に向かう時、美しい山々を見ることで神さまを感じました。
山中いっぱいに茂る若葉や、ピンクの山桜などを見ていると、調和と完璧さ、そして喜びと愛が感じられるのです。
自然に感動したり、音楽や美しい景色に胸が高鳴るのも、神さまからのコミュニケートだと信じます。なぜならそこには、「美しさ」や「完璧さ」という真実と、喜び、愛が感じられるからです。

今回は、イエス様のように、神さまとのコミュニケーションを上手に取れる人がいるのはどうしてなのかという質問に答えます。

神さまは、
「それは、本当に耳を傾けようという意志を持っているからだ。聞こうという意志を持ち恐ろしくても狂気のさたに思えてもまったく間違っているように思えても、コミュニケーションに向かって心を開き続けるからだ」と、書かれています。

また、「間違っていると思うときには、特に耳を傾けるべきだ」と続けていらっしゃいます。

私たちが「正しい」と思うことは、すなわち「自分が理解して、同意した」ことなのだそうです。
ですから自分が理解できないことを、私たちは「間違っている」と感じてしまうのだそうです。
でも、私たちには、まだまだ神について理解していないことがたくさんあるので、始めは「間違っている」と思いがちなのだそうです。


ですから、私たち人間が前進するには、
「私が『間違っている』と思ったすべてが、本当は『正しい』のかも知れない」と、自分で今一度、自分自身に問うしかないと、神さまは言われています。

「自分はもう神を知っていると思うのをやめなければ、神を知る事はできない。神の言葉をすでに聞いたと思うのをやめなければ、神の言葉は聞こえてこない。あなたがたが、自分の真実(自分が信じてきたこと)を語るのをやめなければ、私の真実をあなたがたに語ることはできない」と。

上記の内容は、神さまについて間違ったことを信じてきてしまった人たちに向けて、発している言葉なのだと、私は理解します。

ですから私たち一般の日本人のように神をよく知らない人や、神について疑問を感じていた人にとっては、上記の「神について間違っている」とか「神について正しい」と思うことついて、あまり当てはまりません。

ただ、私はよく生徒さんたちにも言いますが、真実(正しいこと)は移り変わります。
自分にとって正しくても、人にとっては間違っていることがたくさんあります。
「正しいこと」は、時代によっても、移り変わるものです。
ですから、自分が信じていることだけを「正しい」として、主張をただ押し付けるようなことがあってはいけません。

神さまは、その事をここで私たちに教えてくれています。

「わたしが間違っていると思ったすべてが、本当は正しいとしたら、どうだろう」と、まるで優れた科学者のように、すべての前提を捨てて一からやり直すことを、神さまは勧めていらっしゃいます。
「偉大な発見はすべて、『正しくない』ことを恐れない意志と能力によって、成し遂げられた。今ここで必要なのはそれだ」と。


ここで、二ールさんは神についてご自分が学んできたことについて、質問をされています。
「わたしが教えられた神についての真実は、あなたからきたものでしょう?
 指導者たち、聖職者たち、ラビたち、僧侶たち、本、聖書から学んできました」と。

このことについて神様は、
「それは権威のある根拠から、伝えられたものではない」と、言われています。

それでは何が、権威のある根拠となるのでしょうか。
そのことについて、次回は書きたいと思います。

上に

前回は、神さまと上手にコミュニケーションをとるためには、どうしたら良いかというお話しでした。
神さまの声(自分自身の内なる真実と愛と喜びに満ちた声)に耳を傾けようという意志を持ち、恐ろしくても、狂気のさたに思えても、まったく間違っているように思えても、コミュニケーションに向かって心を開き続けると、うまくコミュニケーションがとれるようになるとの、お話しでした。

今回は、「聖書、僧侶、聖職者や指導者たちの言葉には、ない」とされる「本当の神からのもの」とは、いったい何なのかという質問に答えます。

神さまは、それは
「自分の感情、自分の最高の考え、自分の経験」と、答えていらっしゃいます。
先に紹介している「自分自身の内なる感情、思考、経験の中に神からのメッセージがある」ということと、同じ内容です。

そして「その(感情、思考、経験の)どれかが、教師に教えられたことや本で読んだ『言葉』と違っていたら、『言葉』の方を忘れなさい。言葉は、真実の伝達手段として、一番当てにならない」と、続いています。

何度も書きますが、「喜びと真実と愛が感じられる自分自身の内なる感情、湧いてくる思考、自分の経験」が、神さまからのコミュニケーションなのです。
また、「これまで学んできた『言葉』や『神を知っているという気持ち』は、間違いだったかも知れないと思いなさい」とも、言われていました。
私たちは、神さまとコミュニケーションを取りたいのなら、以上のことを忘れないようにしなければなりません。

ここでニールさんは、私たちみんなが理解できるような方法で、神が姿を現してくれないのはなぜなのかと、聞いています。
誰も否定できないような姿、かたちで現れないのはなぜか、という問いです。

このことについて神さまは、
「わたしには、あなたがたが理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見た姿だけを『神』だとみなして、それが多くの中の一つに過ぎないとは思わないだろう。自分の見た『神の姿』だけが、それこそが神の唯一の姿だと思い込むだろう」と、書かれています。

神さまは長い間、「誰が本当の神を見たのか」という人間の果てない論争を見て来られました。

また、「悪のしわざだ、あるいはただの想像力の産物だと言う者がいるだろう。私が全能の神、天と地の王者として姿を現し、それを証拠立てるために山を動かして見せたら、『悪魔に違いない』と言う者がきっといるだろう」と、続けていらっしゃいます。

神さまは私たちが「自分の心」に耳を澄ますということを、ここでも勧めていらっしゃいます。「神は外から分かるかたちで、あるいは外界の現象を通じて出現するのではなく、その人の内的体験を通じて姿を現すものである。内的体験を通じて現れるなら、外から見える姿は必要ない」と。


次回は、欲しいものを求めて祈ることについて書きます。  

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2.「求めること、欲しいと願うこと」

前回までは、神さまとのコミュニケーションは誰が、どこで、どのように受け取るのかを書きました。
神さまとのコミュニケーションは、人類誰も(大人も子どもも聖職者も罪人も)が、どんな場所でも(例えばトイレの中でさえも)、主に自分自身の心の中で受け取ります(外部で目にすることも、あります)。また、神さまのコミュニケーションには必ず、愛と喜びと真実が感じられます(それ以外は、神からのものではありません)
耳を傾けさえすれば、それが神さまからのメッセージだと、誰もが理解するでしょう。

前回、神さまは、その御姿が人の目に見えて出現することの意味のなさを二ールに伝えていました。
それでも「神に、はっきり目に見えるように現れて欲しい!」と強く願ってしまう二ールさんに、神さまが伝えたことを、ここに書きます。

神さまはいきなり、「不可能だ」と答えています。
「(神の出現が)要求されるなら、それは不可能である」と。

ここから先の神さまからのメッセージは、「欲しいものを要求して願う」ことについて、書かれているものです。

「要求するなら、不可能である。あなたがたが求めるのは、そこにはないからであり、(例えば神の出現を)求めるのは、『神が見えない』と、あなたが認めることだから」
「あなたが神が見えないといえば、神は見えてこない」
「したがって『神の出現を求める』とあなたが言えば、『神が見えない』という経験をするだろう」

人間が欲しいものを要求して願うと、それは得られないのだと、はっきりとここで言われているのです。

続いて、「創造の原理」を含めて説明されています。

「何かについて『考える』というのは何かについて『創り上げる』という行為のうちの一つであり、言葉によっても『創る』ことができる。思考と言葉、この二つが合わされば、創る効果はますます大きくなり、創り上げた結果、『現実』となる」
「したがって、『求める』と言えば、『存在しない』という経験をするだろう。既に存在しているのなら、存在を求めるはずがないのだから」


ここで二ールさんは、
「欲しいものを求めることはできないのですか?何かを求めて祈るということは、実はそれを遠ざけることになるのですか?」と、聞いています。

神さまはその答えを、太古の昔から何度も問われ、何度も答えてきたのだと、二ールさんに話しました。
「しかしあなたがたは、答えを聞こうとしなかったし、信じようとしなかった」と。

その答えを、次回は書きたいと思います。

心からの感謝と愛情を込めて。
すべての存在へ。

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前回のまとめ・・・
「『求める』ということは『ない』ということなので、与えられない」と、神さまがニールさんにお話しをされました。
そこで二ールさんは、
「欲しいものを求めることはできないのですか?何かを求めて祈るということは、実はそれを遠ざけることになるのですか?」と、聞きました。

今日はその質問についての答えを、書きます。

神さまはその答えを、太古の昔から何度も問われ、何度も答えてきたのだと、二ールさんに話しました。
「しかしあなたがたは、答えを聞こうとしなかったし、信じようとしなかった」とのこと。

ここで一旦、「『求める』ということは『ない』ということなので、与えられない」とは、どういうことなのかを、説明します。

前回、「何かについて『考える』というのは何かについて『創り上げる』という行為のうちの一つであり、言葉によっても『創る』ことができる。思考と言葉、この二つが合わされば、創る効果はますます大きくなり、創り上げた結果、『現実』となる」
と、神さまの言葉として書きました。

これはすなわち、人は「思考」や「言葉」で、何かを現実的に創り出す(創造する)生き物であるということです。
実は人間は、「思考」と「言葉」によって、現実化したいものを現実化することができるのです。

ですから私たちが例えばお金を「欲しい」「求める」と思考し、言葉にすれば、お金を「欲しい」「求める」という状況が現実化する(続いてしまう)ことになります。
何でも与えて下さる神さまは「お金が欲しいんだね?わかった。『お金が欲しい』をあなたに与えよう」と、なってしまうのです。

では、何かを得たいと望む場合、どのように祈れば良いのでしょうか。
神さまは、「正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である」と、書かれています。
「現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ。感謝とは、神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから」
「決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい」


神さまは本当に、「全知全能」です。
神さまに出来ないことは、何もありません。
私たちが願いをかなえるには、全知全能で、愛と喜びと真実を与えてくれる神をただ信頼しなさいと、神さまは言われているのです。

ですから、例えば「家が欲しい」と思った瞬間に、「家が与えられる!神さま、ありがとう!」と、即座に喜んで、感謝すれば良いのです。
そうすれば魔法使いの神さまは、「家が与えられて嬉しいんだね(^^)わかった。あなたに家を与えよう」と、家を下さいます。

まとめると、二ールさんの質問・・・
「欲しいものを求めることはできないのですか?何かを求めて祈るということは、実はそれを遠ざけることになるのですか?」
その答えは、
「求めて祈るのではなく、与えられることを確信して感謝しなさい。そうすれば与えられる」ということです。

ここで二ールさんは、
「でも、何かについて前もって神様に感謝したのに、それが実現しなかったら、きっと幻滅し、腹が立ちますよ」と、もっともな質問をされています。


それについての神さまの答えを、次回は書きたいと思います。  

上に

前回は、「欲しいと思うなら、欲しがってはいけない。欲しいと思うなら、与えられる(既に与えられている)と確信して、感謝して祈りなさい」という内容でした。

それに対して、ニールさんが
「でも、何かについて前もって神様に感謝したのに、それが実現しなかったら、きっと幻滅し、腹が立ちますよ」と、質問をされています。

神さまの答えを、今日は書きます。

神さまは、前もって感謝するとその希望(願い)が叶わないことがない(100%望みは叶う)ことを、知っています。
そこで次のように、二ールさんに言われました。

「感謝は神をあやつる手段ではない。自分の奥深くにある本心は、神には隠せない。『これこれについて、神さまに感謝します』と言いながら、内心は『願いが満たされていない』と信じていたら、神はもちろん、あなたが本心で信じているとおりにする」

神さまには、私たちが気付かないような心の領域さえ、伝わっているのです。
ですから、願いをかなえるためには、「本心から確信する」しかありません。
このことは、簡単に出来る人と、出来ない人がいるのは確かです。
「自分と神さまを信頼する」ことが簡単にできるようになれば、願いを叶えることが格段に上手になるでしょう。


神さまは「信念があれば、山さえ動かすことができる」
「わたしが『ある』と言えば、『ある』ことが分かるだろう」
「あなたが求めもしないうちに応えてあげると、わたしは言っている。あなたが選ぶこと、わたしの名で選ぶことはかなえてあげると、わたしはあなたがたが訊ねるより前に、あらゆる方法で、あらゆる教師を通じて言ってきた

と、私たちに「信念」で「神」を信じることをより強く促していらっしゃいます。

二ールさんはさらに、「しかし、祈りが叶えられなかったという人は大勢います」と神さまに聞いていらっしゃいます。確かに、すべての祈りが叶うとは、誰もが信じにくいでしょう。

しかし神さまは、再びはっきりと応えていらっしゃいます。
「どんな祈りでも、叶えられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから」

「そして、どんな祈りも、どんな考えや思い、感情も、創造につながる」
人が持つどのような考え、思い、感情も創造につながるとは、どういうことでしょうか。
「祈りが叶えられないというときは、実は、最も強く信じている思考や言葉、感情が作用している」
「思考の陰には、常にもう一つの思考『思考を支える思考』とでも言うべきものがあって、それが思考をコントロールしている。つまり、何かを求めたり、願ったりすると、望んだことがかなう可能性は非常に小さい。なぜなら『欲求を陰で支えている思考』というのは、『望みはかなっていない』という思いだから。そちらのほうが現実になる」

信仰心がない人は、自分の力だけで生きていると思いがちなので、私は損だと思えます。
なぜなら、神さまにはどんな願いも叶えてくれる魔法使いで、そんな素晴らしい神さまが奇跡を起こしつつ自分を応援していると信じる方が、はるかに大きな可能性が望めるからです。
そんな神さまを、私たちはどうやって本心から信じると良いのかを、神さまは教えてくださっています。

支えとなる思考のなかで、『望みが叶っていない』という思いよりももっと力強いのは、『神は必ず求めるものを与えてくれる』という信念、それだけだ


「神があらゆる求めに応じてくれると信じるのは難しいが、そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みがかなっていることを、素直に感謝するようになる

望みを叶えるために忘れてはならないのは、「感謝する心」だと世間一般的に言われてきたことです。
その理由をここで知ることができました。

次回は、「神が人の人生を創造しているのか、それとも人が自分の人生を創造しているのか」について、書きたいと思います。  

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3.「人が持つ創造の力、人の観察者である神、生まれた『悪魔』

前回、神はすべての人の思いを叶え、創造すると、書きました。

その思いが、たとえ心の奥で信じてしまっているような、負の要素を持っていること(例えば心配事や不安)であったとしても、その人が「そうだ」と認めてしまっているようなことは、叶えてしまいます。

とにかく神さまは、人が持つあらゆる思いを創造してしまうのです。

何かを欲して求める場合・・神さまはこう言われています。
「そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みがかなっていることを、素直に感謝するようになる」
・・・・・・・・この祈りが、私たちの建設的な願いを叶えるための祈りです。

すべての願い(思い)は叶うということを、私たちは心底、知らなければなりません。

ここまで聞いて二ールさんはあることに気付き、驚きました。
ニールさんは「神さま」が願いをかなえるのではなくて、「人の思い」がすべてのことを創造しているということに、気付いた
のです。

そこで神さまに訊ねました。
「神は何もしないのですか?祈りのあとで起こることはすべて、人間の祈りという行為のお陰なのですか?」

神さまは、二ールさんと距離をあけるように、こう言われています。
ずっと神を頼って生きて来たニールさんにとって、辛い答えだったことでしょう。
「神は観察者であって、あなたの人生の創造者ではない。神はあなたがたの人生を助けるが、あなたが期待しているような助け方はしない。人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない」

では、誰が自分の人生を創造しているのでしょうか。
先ほど、「『人の思い』がすべてのことを創造している」と書きました。
もうお分かりですね。

「自分の思いが、自分の人生を創っている」のです。

厳しく感じられますが、
「人は自分の人生に責任を持たねばならない」理由が、ここにあります。

神さまは、続けてこう言われています。
「神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたがたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなたがたが創造したのだ。神はあなたがたが自由に選べる選択肢を与え、人生を好きなように生きる力を与えた」
神さまは私たちに「選ぶ力」と「好きなように生きる力」を与え、私たちはその力によって自分の人生を創り上げていると言うのです。
「神があなたがたに力を与えたという意味で、あなたがたの意志は、あなたがたに対する神の意志でもある」とのこと。

さらに、
「あなたの生き方はあなたの生き方であって、わたしはそれを、良いだの悪いだのと判断したりしない。そのことで、あなたは大きな幻想を抱いている。あなたの行動に、神が関心を寄せていると思っている」

神さまは、人間が選んだものごとに「良い」「悪い」と判断をつけません。
ですから「神さまのバチが当たる」という考え方は、ここで消滅してしまいます。


あなたが何をしようが、わたしには関心がない。そう聞くと辛いかも知れない。
だが、遊びに出た子ども達が何をするかに、あなたは興味があるだろうか。子どもたちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、ままごと遊びをするかと気にするだろうか。気にしないはずだ。なぜなら、子ども達が安全だということをしっているから。安心で楽しく遊べる環境に、子ども達を置いているから」

神さまは私たちを、「安全な場所」に置いて下さっていると、言われています。

「もし怪我をしたら、助けに行き、傷をなおしてやり、安心させ、幸せにしてやり、翌日はまた遊びにいけるようにしてやるだろう。それでも、子ども達が翌日、かくれんぼをしようと、ままごと遊びをしようと、どうでもいいはずだ」

「もちろん、危険な遊びは教えておくだろう。だが、子ども達が危ない遊びをするのを止めることはできない。いつも、いつまでも、死ぬまで危険から守ってやることはできないのだ」

人は神の子です。
この宇宙や生命を創った大いなる神さまは、地球で遊ぶ子どもである人間たちがどこで何をしようと、関心を向けることがないのです。
遊び(過程)には関心はなくとも、子ども(人間)に対する愛情があるのは、確実です。
話を聞いてやり、助けに行き、安心させて幸せにしてやると、言われています。

またここで、「人間」は我が子の遊びについてはあまり気にしませんが、結果について心配をしてしまいがちだと、神さまは指摘されています。
すべての親がそうだとは思えませんが、人は「結果」を恐れてしまいがちだと、神さまは言うのです。

それに対して「人類の親である神さま」は、究極の結果については懸念(心配)していないとのことです。
「究極の結果は、確実に決まっているからだ」と、言われています。

神が言われる「究極の結果」とは、何でしょう。
次回に紹介したいと思います。

上に

前回は、神さまは人間の「行為」に関心を寄せていないと、書きました。
したがって「神さまが見ているから、バチが当たる」ということは、ありえないということも、書きました。

ここまで読んで、もしかすると寂しい思いをする人もいらっしゃるかも知れません。

「無関心」と聞くと、愛情がないと、感じられがちだからです。

神さまは、私たちの「行為」に関しては無関心ではあるけれども、決して私たち人間そのものに無関心であるわけではありません。
それは愛情深い親が、日中の子どもの行為に関しては関心はなくとも、今日の出来事を話す子どもの言葉に耳を傾け、可能な限り適切と思われるアドヴァイスや導きをしたいと思っているのと、同じです。
神さまは私たちの行為に対して「良し悪し」の判断はしませんが、私たちの話を聞き、助けようと考えてくれています。
その証拠にたくさんのメッセージや啓示が、これまでも人たちに与えられていました。
私も以前に、神からのメッセージは人の感情や思考や経験の中に送られ、そのメッセージには「喜びと真実と愛」があると、書きました。

神さまはもちろん、我が子である人間達を愛してやみません。

また「神さまからのバチが当たらない」としたら、誰が私たちにバチを与えているのでしょう。
良い行いを重ねれば「徳を積んだ」とされて、良いことばかりが返ってきます。
また、悪い行いは悪い出来事として自分に返って来るとも、よく言われています。
善きもの、悪きもの、それらは誰が返しているのでしょうか。

神さまは「カルマ(因果応報)」という仕組を、宇宙に作られました。
自分で撒いた悪い種から育った悪い作物は、自分で刈り取らねばならないと言われています。
良い作物も、自分が撒いた種であれば、刈り取るのです。それは嬉しい出来事です。

結局、私たちにバチを与えているのは、神さまではなく、私たち自身なのです。
「神さまが見ている」のではなく、「自分が見ている」から、バチが当たって悪いことが起きます。
良いことをすれば、「自分」が良いものを引き寄せます。

・・・でもややこしいので、子ども達には「神さまが見ているよ」と言うことにします。
あながちそれも嘘ではありません。
人間は神さまの分身で、亡くなったら神に戻ります。
ですから、自分=神でもあるのです。

人が神の分身であると言われる所以も、ここにあります。
神である自分が見ているから、悪いことをすれば自分で罰を下すはず。

「神である自分」は、「ハイアーセルフ(より高いところにいる自分)」とも、言われています。
ハイアーセルフは、愛(神)そのものであり、完全であり、いつも私たちと共にある傷つかない魂のことです。
ハイアーセルフは、私たちに色んなことを教えてくれる存在でもあります。
いずれハイアーセルフについても、詳しく書けると良いなと思います。

「神と共にある」と決めたあなたは、実際に、いつも神と共にあります。

次回は前回の続きで、神の言う「究極の結果」について書きます。

上に

前回、人間達が抱いている「第一の幻想」は、「人たちの行動に神が関心を寄せている」ということでした。
すなわち、神は人たちの「行為」に関心がないと、書きました。

補足として、神は、人たちの「行為」については関心がなくても、人間達を愛してやまない存在だとも、書きました。
「神と共に生きる」と決めた人たちは、実際に、神と共に居ます。

実は人間達も同じように、愛する子供たちの日中の「行動」には、あまり関心がありません。
補足:子どもの行動のすべてをチェックして介入しようとする親は、愛情深いのではなく、子どもに依存する傾向があり、心配症なのだと、心理学的に考えられます
ただ人間達は、「結果」について心配しがちであると、神さまは言われました。
ここで人類の親である神さまは、「究極の結果は確実に決まっているから、神は究極の結果を懸念しない」と、書かれていました。

今回は、「究極の結果」について書いていきます。

「神との対話」には、人間の持つ第二の幻想として
(第一の幻想は、神は人間の行為に関心を持っているというものでした)
「人生の結果が不確かだと思っている」と、書かれています。

「人生の結果が不確かである」ということが私たちの幻想だとしたら、真実は「人生の結果は確実に決まっている」ということになります。

このことを私たちは信じなければなりません。

神は続けて書いています。
「究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信がもてないから、創造者(神)を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
「神の意図を疑い、究極の結果を生み出す神の力を疑っていたら、安らかでいられるはずがない。真の安らぎは感じられない」
「神は意図する結果を生むだけの力をもっている。それがあなたがたには信じられない(たとえ神は全能だと主張している者でも)。」

上記の、神さまがカッコ書きで書いてあるところが、私には可笑しく感じられます。
なぜなら私自身も、やはり神は全能だと主張していますが、まだまだ信じ切れていない自分に、ふとした瞬間に気付かされるからです。
そう。たとえ神は全能だと主張している者でも、将来に対して少しでも不安を感じてしまうなら、それはまだ神の力を信じ切れていないのです。
神の力を信じるには・・・「強い信念」が必要です。


大昔から、神の力を信じられない人たちは大勢いて、そして「神と闘うもの」を想像して作り出しました。それが「悪」です。
神の力を信じられない人たちは「悪は神に匹敵する力を持ち、神の意志を曲げようとしている」と考えて神話とし、人たちに広めました。
神が人間達と同じような方法で問題を解決すると考えて、神が「悪」という存在と闘っていると想像したのです。
「そのうえ、あなたは神がこの闘いに負ける可能性があるとまで、想像した。すべて、あなたがたが知っているはずの神と矛盾するが、それはどうでもいい。」と、書かれています。
ここは神さまが半ばあきれた様子でこの話を二ールさんにしているようで、おもしろく感じられました。
続けて「あなたは幻想の中で生き、そのために不安を感じる。すべて神を疑おうとしたことから生じているのだ」と、結んでいらっしゃいます。


私たちは、究極の素晴らしい結果を生み出す神を、なかなか信じられません。
全知全能の魔法使いである神を信じたいのに、信じられないから、「悪魔」を想像しました。「神さまと闘う存在があるなんておかしい」と、素直な子どもには、その矛盾がすぐに分かるはずです。

ここで神さまは、「別の決意をしたらどうか。どんな結果になるか教えよう」と、言われています。
別の決意とは、「私たちが全知全能の神を信頼し、結果を恐れず、不安から離れる決意」のことです。
この決意をすると、どんな結果になるのでしょうか。

次回に書きたいと思います。

上に

前回は、全知全能ですべての願いを叶えてくれる神を、人間は信じることが出来ないという理由で、「悪」が生まれたと書きました。
「神には不可能なことがない」はずなのに、人間は神が悪との闘いに負けることがあると想像し、神話となりました。もちろん、そこには矛盾があります。
宇宙は神が創造し、また、神には不可能がないのだから、相対する「悪魔」など、存在するわけがないのです。

人間は「悪」を信じることで人生の結果を不確かなものと信じ、「不安」を感じるようになりました。

私たちが全知全能の神を信頼し、結果を恐れず、不安から離れる決意をするとどうなるのかを、今回は書きます。

神さまは「仏陀のように生きるだろう。イエスのように生きるだろう。これまで偶像化されたすべての聖者のように生きるだろう」と、書かれています。
仏陀やイエス、その他の聖者と呼ばれる人は皆、大勢の人たちの考え方や人生にに大きな影響を及ぼし、奇跡を行って神の力を示す人もいました。
深い愛情と、深い智恵(悟り)に触れたり、自分や家族が抱える病や怪我などに奇跡的な癒しを得たいと、大勢の人たちが聖者の元に集まりました。
死後の世界についての智恵は、家族を亡くした人たちの大きな慰めにもなったことでしょう。

そんな聖者のように、私たちも生きることができると、神さまは書かれていました。

不安や悪を遠ざけ、ただ全知全能の神を信頼すると決意するだけで、聖者のように生きられるのです。

次に、聖者のように生きる「あなた」の周囲の人たちは、どのように「あなた」を感じるのかを書かれています。

「これらの聖者たちと同じように、あなたは理解されないだろう。あなたが感じる平穏や人生の喜びを、恍惚感を説明しようとしても、ひとはあなたの言葉だけを聞いて、内容は理解しないだろう。あなたの言葉をくり返そうとして、べつの内容をつけ加えるだろう」

「自分たちとは違う何をあなたは発見したのか、と人は思うだろう。そして嫉妬をつのらせるだろう。やがて、嫉妬は怒りになり、怒りに燃えた人たちは、神を理解していないのはあなたのほうだと言い負かそうとするだろう

「それでもあなたの喜びを奪うことができなければ、怒りのあまり、あなたを傷つけようとするだろう」

「『かまわない、たとえ死んでも喜びを消すことも、真実を変えることもできない』とあなたが言えば、人はあなたを殺そうとするに違いない。そして、あなたが穏やかに死を受け入れるのを見て、あなたを聖者と呼び、ふたたび愛するだろう」

「なぜなら、いちばん大切なものを愛し、つぎに破壊し、それからふたたび愛するのが、人というものだからだ」

と、書かれています。

ここのところは私には衝撃的でした。
しかし確かにイエスさまは、人たちに愛され、憎まれ、そしてまた愛されました。
(もちろん、一貫してイエスさまを慕い続けた人たちもたくさんいらっしゃいました)
お釈迦様やマホメット、聖フランシス・・たくさんの聖人たちは、どうだったのでしょう。
彼らに、彼らを嫉妬して憎む存在があったのでしょうか。・・
お釈迦様は元々、一国の王子だったので、嫉妬されるようなことはなかったと思いますが、周囲の人たちに選んだ人生を否定されたことは予想できます。

ここで私と同じように、ニールさんも驚いて、神さまに質問されています。

「しかし、なぜなのですか? どうして、わたしたちはそんなことをするのですか?」

その答えを、次回に書きたいと思います。

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4.「愛とは、不安とは」

前回は、神を信頼して生きるとどうなるのかというお話をしました。
不安や悪を遠ざけて神を信頼して生きると、仏陀やイエス、その他の聖者のように生きるだろうと神さまが言われました。

しかしそのように生きる人はこれまでの聖者たちと同じように、周囲の人たちに理解されず、嫉妬され、怒りにふれて、傷つけられようとするだろうと、書いてありました。

なぜ人は聖者に対してそのように思い、恐ろしい結果をもたらそうとするのでしょうか。
神さまは、
「なぜなら、いちばん大切なものを愛し、つぎに破壊し、それからふたたび愛するのが、人というものだからだ」
と言われています。

その理由を、今日は書きたいと思います。

人間の行動や感情の源になるのは、「不安」と「愛」しかないと、神さまは言われています。
魂の言語には、この二つしかありません。
この二つは、神さまが人間や宇宙を創造したときに生んだ「二つの極」なのだそうです。

すべての感情は「不安」からか、または「愛」から生まれます。

感情も思考も行動も、「愛」か「不安」か、どちらかを根拠としており、ほかの考えはすべて、この二つから派生したものであるとのことでした。

例えば怒りや悲しみも、自分も人もまったく安全で安心であり、「不安」がまったくない状態であれば、少しも生まれることはないでしょう。

嫉妬心が生まれる理由はたくさんありますが、根底には「負けた」という悲しみがあります。
たとえ負けたとしても、そのことに対して何も「不安」がないのなら、嫉妬心は生まれないでしょう。何かひとつのことで誰かに負けたとしても、その誰かより自分の何もかもが劣るということは、あり得ないのです。
(人は誰でも、その人にしかない才能が与えられています)

対して思い遣りや喜びは、何かを「愛でる」ことから生まれます。
共感も同じです。
そこには不安はまったくなく、「愛」だけがあります。

競争心は複雑です。
不安から生まれることもありますが、愛から生まれることもあります。
愛から生まれた競争心は、もはや誰かに勝つことに意味があるのではなく、「創造すること」が目的となります。
「私は金メダリストである」という「創造」の過程に、誰かとの競争があるだけです。
良い勝負は、こうあるべきだと思います。
ライバルは蹴落とすために存在するのではなく、成りたい自分を創造するために存在している大切な人なのです。

他にも色んな感情について考えてみると、やはり根底には「不安」か「愛」かしか、ありません。
この二つが、神さまが言われる「支える思考」なのだそうです。
「愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある」と、言われています。

「この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ」とのこと。

ここに「いちばん大切なものを愛し、つぎに破壊し、それからふたたび愛するのが、人というものである」という理由があります。

「ひとが愛し、つぎに破壊し、そしてまた愛するのは、つねに一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからである」と、書かれています。

「愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える・・・」

私たちは「聖者のように生きる人」を最初は「すばらしい!」と愛します。

しかしやがて、嫉妬心や怒りを抱くようになります。その理由は、素晴らしい「聖者」が本当に自分を愛してくれているのかどうかが不安になったり、「自分が劣っている」と感じて聖者の存在自体が不安になるからです。
そして「本当には神を理解していないじゃないか」として、聖者を傷つけようとし出します。

そうやって聖者を排除した後、罪悪感と安心感が心の中に生まれ、「やはりすばらしい人だった!」と、再び賞賛することになるのです。

とても悲しい悪循環を、人間は繰り返してきています。
もちろんすべての人間がそうだとは、思えません。

それでは、人はどうするとそんな悪循環から離れることができるのでしょうか。
次回に書きたいと思います。

上に

前回は、人間の行動には二つの動機しかないことを書きました。
すなわち二つの動機とは、「不安」または「愛」であり、どのような感情も思考も行動も、この二つのどちらかが元になっているとのことでした。
この二つの要素がなければ、ほかの感情や思考は存在しえないとさえ、言われています。

「ひとが愛し、つぎに破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ」
「愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える・・・」と続きます。

そういう理由で、最初は多くの人々に愛されていた聖者は、次に憎まれ、この世から居なくなってしまった後に再び愛され始めます。

なぜ私たち人間は、このような悲しいくり返しを続けてきたのでしょうか。

今日は、その理由・・・「不安と愛とにゆれ動く理由」について書いていきます。

最初の原因は「神を信頼しないという誤り」にあると、言われています。

「神を信頼しない」ことが、「不安」になるための最初の要素だと言われるのです。

神を信頼できないから、神の愛を頼れず、また神が条件つきで私たちを受け入れているのだと思い込んでしまいます。
また、究極の結果が保障されていないと、思ってしまいます。

神さまは、
「神の愛がつねに存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか」と、言われています。
「あなたがたが正しく行動しなかったら、神は見捨て、手を引いてしまうとすれば、神ならぬ身の人間を頼れるはずがない」と。

「・・・・・だから、あなたがたは最高の愛を誓った瞬間に、最大の不安にぶつかるのだ」と、続けていらっしゃいます。

ここで一般的な恋愛感情を例に出されています。
まず、「あなたを愛しています」と口にした
(愛)瞬間に、相手が同じことを言ってくれるかどうかと心配(不安)になります。
次に、相手の同じ言葉を聞いた
(愛)とたんに、今度はその愛を失うのではないかと不安になります。
そうするとあらゆる行動が「失う不安」に対する防御反応となってしまいます・・・。

不安は、人が恋愛を辛く苦しいものにしてしまう根本的な原因でもあるのです。
恋愛でなくても、人間関係を築くには信頼(安心感)が必要です。

私たちがトラブルや苦しみの元となる不安から離れるために、神さまは「神を信頼しないことは誤りだ」と教えてくれています。

神の愛は絶対的なもので、私たちの行動のためにその愛が変わることはありません。
それは、愛情深い両親なら、すぐに理解できることです。
愛情深い親は、子どもがどのように行動しようとも、やはり子どもに愛情を持ち続けます。
決して「子どもが勉強ができるから好き」だとか、「子どもが言うことをきかないから嫌い」というようには、なりません。
子どもがどのように行動しようとも、「かわいい」「愛しい」と思う愛情は変わることはないのです。

神さまは私たち一人一人を、たとえ私たちが「どんな風」だろうとも、大好きでいてくれるのです。
ここを信じられるかどうかが、「不安」から離れる大きな決め手になるとのことでした。

二ールさんはアメリカ人です。
アメリカ人のほとんどの人たちが唯一神である「神」を信じています。
だからこそ「神との対話」では「神」を信頼することの大切さが強調して書かれてありますが、私たちは日本人です。
日本人は唯一無二の神ではなくて、たくさんの神様を信仰しています。
そんな私たち日本人は、「神」の絶対的な愛を信じることが苦手かも知れません。

しかし二ールさんの紹介する神さまは、たくさん存在する神さまを否定しては、いません。
実際、神さまは、あらゆるところに存在しています。
あらゆるところに存在する神が、個々の存在を輝かせながらも、たった一つのかたまりとなって、大いなる宇宙=神を形作ります。

なぜか私は子どものころから「神」を素直に「いる」と思っていました。
人間の心には「集合的無意識」という領域がありますから、もしかすると、誰の心の中にも同じように「信仰心」というのがあるのでしょう。
神さまを信じると、良いことばかりがあります。
また、たくさんの謎が解けます。
ぜひ「神」を信じる心=信仰心を自分の中に見つけてみて、そして宇宙を形作る神さまを信頼してみて下さいませ。

神さまの愛情を信頼することが、不安から離れる大きな決め手になると、さっきも書きました。
神さまの愛情を信頼することこそ、他の人の愛情を信頼するための基礎になると、神さまが言われています。

次回は、神の絶対的な愛情を人が信じられない理由について、書きたいと思います。

上に

前回は、「人が愛と不安とに揺れ動く理由」を書きました。
そうなってしまう原因の、一番最初の誤りとして、「神を信頼しないこと」が書かれていました。

「神」という言葉を「愛」という言葉と置き換えても良いと、以前にどこかで読んだことがあります。
神を信頼しないということは、愛を信頼しないと言っても良いのです。

愛というのは「好き」という感情を元にして、その行動はただ与えるものです。
相手からの見返りを期待せず、相手の幸福だけを思い、行動するのが愛です。
相手がどのように振舞おうとも、どのような心根の持ち主であろうとも、変わらず好きでいられることが「愛(神)」です。

よく「恋」と「愛」は間違われますが、恋は相手を欲することが基本なので、神の言う「愛」が含まれてはいても、やはり「恋」と「愛」は別個のものです。

神さまは、「神を信頼できずに、神ならぬ身である人間を頼れるはずがない」とさえ書かれています。
神さまはたとえ私たちが「どう」であろうとも・・・どのように生きようとも、見捨てたり、手を引いたりはしないと言われるのです。

今回は、神の絶対的な愛情を人が信じられない理由について、書きます。

神が絶対的に私たちを愛してくれるということを心底から信じるなら、私たちは「自分がだめな人間だ」と思わずにすみます。なぜなら、「私」を愛してくれる神さまは、誰よりも崇高な存在であり、私たちを創ってくれた偉大なる存在であり、奇跡の存在だからです。そんな「神」が「私」を「好きでいてくれる(愛してくれている)」のだから、私が自分を「ダメ」だと思う必要はないのです。
たとえ「人」に「だめなやつ」とさげずまれようとも、「神」は愛してくれているのだから。

神さまは、「自分が何者であるかを知っていれば悩みは消える」と書かれています。
しかし「あなたがたは自分が何者であるかを知らず、だめな存在だと考えている」と。

「では、どうして自分はだめなんだと思い込んだのか。そう思わせたのは、あなたがたが無条件で信じた唯一の人たち、母親と父親だ」

続けて、「親は、あなたをいちばん愛している。それならどうして偽りを教えるのだろう」と、書かれています。

親は、子どもにあれこれと指示をします。
「こうしてはいけない、こうしなくてはいけない、子どもはおとなしく言うことを聞いていればいい、うるさくしてはいけない」
「あなたが元気いっぱいなときに、たしなめはしなかったか。大胆な想像をめぐらしているときに、そんなことはやめなさいと言わなかったか」
と、神さまが例を出してくれています。

私たちは子どものころ、両親のそういう言葉を聞いて、その言葉を信じました。
それは子どもたちにとって、絶対的なメッセージだったのです。

こうして「愛は条件つき」だと、私たちは両親から教えられました。
「いい子」にしていれば、両親や世間は愛してくれます。
それは何度もくり返し教えられて、やがて大人になった私たちは、すっかり「愛は条件つき」なのだと思い込んでいるのでした。

「自分が良い人でいれば愛してもらえる(条件つきの愛)」と信じて、「愛する人」との関係にあてはめたり、神との経験にもあてはめました。

「神は愛に満ちあふれている」がしかし、「神の戒律を破れば、永久に追放されて永久に罰せられる」と、思い込んでいる「信者」はたくさんいらっしゃることと思います。
でもそれは、親に突き放された経験があるからであり、親に罰せられた苦しみを知っているから、なのです。
だから神さまとの関係も同じだと、思い込んでしまうのだと、神さまは書かれています。

「あなたがたは、『無条件に愛される』ということはどんなことかを忘れている。神の愛の体験を思い出せない。だから、世間で見いだす愛を規準にして、神の愛も同じようなものだと思う。しかしほんとうのわたし(神)とは、何の関係もない」と書いてありました。

ほんとうの神は、「恐れる必要のない神」であり、「善悪を決め付けたり、罰を与えたりしない神」なのです。

けれどもこの考えを受け入れることは、あまりに素晴らしすぎて、なかなか人たちに心底から受け入れられにくい(信じられにくい)のだと、ここでは何度も書かれていました。

厳しい戒律のあるキリスト教圏に生きていない日本人は、まだ「神の愛」を信じやすいのではないかなと、私は思いました。

私たち日本人は、両親さえおおらかで優しく、子どもに愛情が向けられていれば、「神の愛」を理解しやすいでしょう。

そう。私たちはいつもいつも、神さまに愛されて・・好きでいてもらっています。
たとえ両親や他の人たちがどのように私たちを扱おうとも、どのように思われようとも、神さまは「あなた」や「私」を好きでいてくれています。
決して「だめな私」では、ありません。
また、誰も、「ダメな人」など存在しないのです。


神さまは条件つきの愛を信じてしまった人たちに、次のように言われています。
「自分も同じように、相手を条件つきで愛していることに気づく」と。
しかし、
「ほんとうの愛はそんなものではないと、どこかで感じている」とのこと。

「だが、自分には愛し方を変える力はないと思う。つらい思いをして愛し方を学んだのに、また無防備になったらきっとひどい目にあうと思う」

「しかしほんとうは、愛し方を変えないほうがひどい目にあうのだ」

「愛について(間違った)考え方をしているから、あなたがたは純粋な愛を体験できない。それに真のわたし(神)を知ることもできない」

「だが、それも、いつかは終わる。なぜなら、永遠にわたしを否定しつづけることはできず、やがては和解の時が訪れるからだ」


次回も続けて、「不安と愛」について続きます。

上に

前回は神を信頼すると、人は愛と不安とに揺れ動かなくなるということを書きました。

神を信頼するということは、「神の愛を信頼する」ということで、「神の愛は無条件に私たちに与えられているという」ことを信じるということです。

この考え方は、あまりに素晴らしすぎて人々にはなかなか受け入れられないとも、神さまは書かれています。

なぜ受け入れられないかというと、人は「条件つきの愛(良い人であれば愛されるとか、言うことを聞けば気に入ってもらえるなど)」に慣れすぎているからであり、条件つきの愛は、両親の育児方針から受け継がれているとも、書かれていました。

私たちは「無条件の神からの愛」を、心底、信じるべきなのです。
それを信じると、私たちのふるまいはのびやかに、自由になります。
たくさんのものを与えられていることを喜び、好きでいてもらえることに感謝するようになります。
他にも、たくさんの「良いこと」が見つけられます。


今回は、神さまが言われる「不安と愛」の続きを書きます。

前々回、「人間の行動のすべては、愛か不安に根ざしている」とありました。

「人間関係だけではない。ビジネスや産業、政治、宗教、子ども達の教育、国家の社会問題、社会の経済的目標、戦争や平和、襲撃、防衛、攻撃、降伏に影響を及ぼす決断、欲しがったり与えたり、ためこんだり分けあったり、団結したり分裂したりという意思決定、自由な選択のすべてが、ただ二つの考えから発している。愛という考えか、不安という考えから

考えを巡らせてみると、確かにそうだと思わざるをえません。
例えば育児に関して、私は「しつけ」は最小限で良いと考えています。
それは「しつけ」をする理由が、不安にあることが多いからです。
「他人に不快に思われる不安」だったり「他人から愚かだと思われる不安」だったりすることが、多々あります。

しかし、親が自分自身を大切に思う(愛)ために、行うしつけも、あります。
それが結果的に不安に根ざしていようとも、当たり前と言われるようなしつけ(例えば食卓の上にのぼらないようにするなど)は、日本文化の中で生きていく協調性を養う上で、必要だと考えています。

でも、それ以外のこと・・・例えば幼稚園に行きたくないと言って泣くとか、のんびりしているとか、やんちゃであるとか、勉強を嫌がるとか・・そういうことについて、しつけはしなくて良いと考えています。子どもの悲しい気持ちや、楽しいという気持ち、子どもの感情を尊重したいからです。ここのところは「優しい」と言われている保育士さんたちは、よく理解されていることと思います。

話はそれましたが、神さまは「不安と愛」について、次のように書かれています。

「不安はちぢこまり、閉ざし、ひきこもり、走り、隠れ、たくわえ、傷つけるエネルギーである」

「愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分け合い、癒すエネルギーである」

「不安だから体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む」

そして、
「人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。ほかに選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。だが、どちらを選ぶかは自由に決められる
と、書いてありました。

このことを知って以来、私は自分の行為や言葉が「愛」から来ているのか「不安」からなのかを、問うようにしています。
また、人の言葉や行為、表現も、「愛からなのか、不安からなのか」と見分けるようにしています。そうしていると色んなことが分かってくるからです。
愛情を感じるかたの不安が大きいと感じれば、その不安が払拭されるように、働きかけます。
でもそれは、失礼のないように、慎重に行います(不安からの行為が、私のために・・私を思ってという「思い遣り」であることも、あるからです)
不安を払拭してもらうことで、そのかたは「このままでいい。自分らしくあっていい」という自信が取り戻せ、自由にふるまえるようになれます。

神を信頼していると、何も不安になることはありません。
神を信頼するように努め、クセになってしまっている不安な気持を遠ざけ、「自分らしくあろう」と、いつも自分に言い聞かせています。
(しかしまだまだ、神さまを信頼しきることができない自分に気付かされます・・・)

ニールさんは神さまに聞いています。
「決断しようとすると不安が勝ってしまうほうが多いです。それはなぜでしょうか」と。

神さまの答えを、次回は書きます。

上に

前回は、愛と不安だけが、感情や行動の元になっていることを書きました。
そこから人間関係があり、ビジネスや宗教やそのほか、あらゆる決断に「愛」と「不安」は影響を及ぼすと書かれてありました。

「愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分け合い、癒すエネルギーである」

「不安はちぢこまり、閉ざし、ひきこもり、走り、隠れ、たくわえ、傷つけるエネルギーである」

「不安だから体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱え込み、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む」

このように、愛と不安について、具体的に教えられました。

そして、私たちが「どちらを選ぶかは、自由に決めることができる」と、結ばれていました。

今回は、決断しようとすると不安が勝ってしまうほうが多い理由を、書きます。

それは、「不安を抱えて生きるように教えられているからだ」と神さまは答えていらっしゃいます。

「適者生存、いちばん強い者が勝利を得る、いちばん利口な者が成功すると、聞かされてきた」と。

確かに、「勝ち、負け」にこだわる人たち(こだわりたくないのにも関わらず)は、たくさんいらっしゃいます。
これは、両親や親戚、学校の先生などによって植えつけられた「勝たねばならない」という情報が、無意識から来ているからなのです。

「だから、色々な方法で、あなたがたは適者になろう、いちばん強くなろう、利口になろうと必死になり、どんな状況でも、少しでも劣っていれば負けてしまうという不安におびえる」
「子どものころからずっと、劣った者が負けると言い聞かされてきたためだ」

「お行儀良くできなければ負ける」
「勉強ができなければ負ける」
「きちんとしていなければ負ける」
「金持ちでなければ負ける」
「良い人でなければ負ける」
・・・・・たくさんの「負ける」があればあるほど、不安が大きくなり、負けた回数も増えるはずなので、みじめな気持ちになります。

そう。他人と競争をしてしまう人は、不安で、みじめな気持ちになることが多いのです。
たとえ一時的に何か、誰かよりも優れたところがあったとしても、競争している以上は「上には上がいる」のが普通なことで、再び、みじめになってしまいます。

たまたま、すべてにおいて器用で、優れた特質を持った人が勝ち上がったとしても、何かに突出して勝ったとしても、必ず年老いて弱くなる時がきます。
気付いたときには誰も理解者や、お互いを思い遣れる友人がいなかったということも、あるでしょう。
権力も、名声も、富も、結果的に孤独で寂しいのであれば意味がないと、私には思えます。
分かち合い、笑い合う家族や友人や仲間がなければ、これまで勝ってきたところで、何が幸せなのでしょう。

それでも勝つことにこだわってしまう原因は、「教えられてきたから」だと、神さまは言われました。

ここで神さまが、別の真実を教えてくださっています。

「だが、教えてあげよう。
 愛に支えられた行動をとれば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。そのとき、自分はほんとうは何者か、そして何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう

「そのためには、善意ではあるが間違った教師達の教えをしりぞけ、べつの種類の智恵をもったひとたちの教えに耳を傾けなければいけない」

「そういうすぐれた教師は、昔も今もたくさんいる。わたしは、真実を教え、導き、思い出せる人たちなしに、あなたがたを放っておきはしない」

「しかし、いちばん偉大な教師は外にいる者ではなく、あなたがたの心の声である。それが、わたしが使う第一の道具だ

「あなたがたの心の声は、わたしのいちばん大きな声だ。なぜなら、あなたがたにいちばん身近な声だから。心の声は、すべてについて、あなたがたの言葉で言えば、真実か偽りか、正しいか間違っているか、良いか悪いかを教えてくれる」

「それ(心の声)に従う気になりさえすれば、針路を決めるレーダー、船の舵、旅の道案内となる」

「その声はたったいまも、あなたが読んでいるこの言葉が、愛の言葉か不安の言葉かを教えてくれるはずだ。このものさしを使えば、従うべき言葉か無視すべき言葉かわかるだろう」

ここで、二ールさんの質問が入ります。
誰もが聞きたいことを、二ールさんは聞いてくださっています。

「愛に支えられた行動をとれば、自分はほんとうは何者か、何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるとおっしゃいました。そのことを、もう少し詳しく説明してください」と。

次回は、神さまの言われる「栄光」について、説明したいと思います。
 

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5.「魂の目的」

前回までは、不安と愛とについて書いてきました。
不安は、人生を勝ち負けで判断するところから生まれるということを、書きました。
そしてそれは、両親や学校、周囲の人たちから教え込まれているところに理由があるということでした。

このお話しを読んで下さるかたの中には、「もう勝たなくてもいいんだ」と、ほっと安心されたかたが、いらっしゃるのではないでしょうか。

勝ち続ける必要など、まったくありません。
勝ち続けようとする限り、負け続けることになります。
なぜなら競争意識を持つと、「上には上がいる」のが普通だからです。

(神さま=愛=大好きという感情)を信頼し、愛と不安に揺れ動く感情を「愛」にとどめて(「愛」を選択して)いくと、「自分はほんとうは何者か、何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう」と、前回、神さまがお話しされました。

今日はそのことについて、少し詳しく、説明します。

神さまは、「栄光」について、話されています。

「あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして生きとし生けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ

「魂がすることはほかになく、魂が望むこともほかにはない」

「この目的のすばらしいところは、決して終わりがないことだ。終わりとは限界であり、神の目的にはそんな境界線はない」

「できるかぎりの栄光を体験できたら、その瞬間にもっと偉大な栄光を想像するだろう。栄光を体験すればするほど、もっと大きな栄光の可能性が開けるし、その可能性が開ければ、あなたはさらに栄光を体験できるようになる」

私たち生命体の「魂」が望んでいることは、「栄光を体験すること」なのだそうです。

栄光を体験するのに、競争はもちろん、必要がありません。
誰かに勝って栄光を手にするのではないということを、よく知っておくべきです。

それでは、どうやってその栄光を体験できるのでしょうか。

まず、栄光に包まれた経験は、「愛(大好きという感情)に支えられた行動をとる」ことが前提でした。

そして「最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセス(過程)だということだ」と、神さまは続けていらっしゃいます。

そう。栄光は特定の誰かに勝って得るものではなくて、自分で創造して得るものなのです。

大好きという感情(愛)をベースにして、「こうありたい」という自分を創り上げていくことが、栄光を体験するルート(道)です。
ここで「不安」を選んでしまうと、残念ながら栄光は遠のきます。

大好きという感情が、一番大切なのです。

次回は、人生は創りあげていく(創造である)ということについて、書きます。

上に

前回は、「あらゆる生命体(魂)の目的はひとつしかなく、それはできるかぎりの栄光を体験することだ」というところを、少し詳しく書きました。

「栄光の体験」は、愛に支えられた行動をとることから生まれ、また、それには終わりがなく、限りなく体験できるようになるだろうと、いうことでした。

「最高の秘密は、人生とは発見ではなく、創造のプロセス(過程)だ」
このことについて、今日は書きます。

神さまは言われています。

「あなたがたは自分を発見するのではなく、自分を新たに創造していく」

「だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい」


「自分の使命や、人生で成し遂げるべきことを知りたい」と問うことが、私も以前にありました。
他にも同じ質問を、他の方からも聞いたことがあります。

以前は、人には「持って生まれた使命」というものがあって、その使命を知ることで、もっとも良い形で世の中の役に立ちたいと、思っていました。
きっとそれは、どこかに書いてあったことを、そのまま疑うことなく信じたからでしょう。

使命を知ると、その方向に向いて生きれば良いですし、将来を保障されているようなものですから、生きて行くのが楽になります。
でも、これまで誰も「決めてきた使命」を知ることはできませんでした。

それは何故かというと、人は時間軸に沿って、たくさんの使命を持っているからです。

例えば、今、私が持っている使命は「子どもたちをちゃんと育てる」「子どもたちを幸せにする」「家庭を平和に保つ」「仕事を一生懸命にする」「自分を大切にする」「自分と関わる人たちに愛情を持つ」「未来を築く」「人たちを癒す」「神をさらに強く信じる」「不安をなくす」・・・etc
などなど、たくさんの使命があります。
ただ時間が過ぎているのではなくて、同じ時間の中に、使命がたくさんあるのです。
人生とは、そういうものなのでしょう。
だから、たったひとつの使命というものを、誰も知ることはできないのです。

神さまは、
「自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい」

「そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい」と、言われています。

ここで二ールさんの質問が入りました。
「人生とは学校のようなものだ、何かを学ばなくてはいけない、ここを卒業すれば、肉体というかせにしばられずに、もっと大きな目的を追求できるという人がいますが、この考えは正しいのですか?」

神さまは「それは、人が作ったただの神話である」と、否定されました。

「人生は学校ですか?」、「何かを学ぶために、生きているのですか?」という質問にも、

「ちがう」と、答えていらっしゃいます。


人生は学校ではないと言われる神さまのお話しを、次回は続けたいと思います。

上に

前回、「人生とは発見ではなく、創造のプロセス(過程)だ」という部分を書きました。

私たち人間は、「自分を発見するのではなくて、新たに創造していく」のであり、「自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい」と、言われていました。

そして、「何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい」と、言われていました。

また、「人生は学校のようなものですか?何かを学ぶために生きているのですか?」というニールさんの質問に、神さまは「ちがう」と、答えられました。

今日はその続きです。

ニールさんは、「それでは、何のためにこの世に生きているのですか?」と、質問されています。

神さまは、
自分が何者であるかを思い出すため、そして創りなおすためだ
と、言われました。
そして神さまはそのことを、何度も人たちに伝え続けて来られましたが、私たち人間は信じなかったとも、言われました。

「それはそれでいい。あなたがたが真の自分になぞらえて自分自身を創り出さなければ、真の自分にはなれないのだから」と、続けていらっしゃいます。

これまでたくさんの人たちから「人生は学校だ」と聞かされてきたニールさんは、それを否定されたことに、驚きを隠せませんでした。

神さまは、
「学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない
「人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい
と、言われています。

ニールさんは、ご自分の思い込みによって、上の神さまの言葉を理解することができませんでした。
それで、さらに詳しい説明を神さまに求めました。

神さまは、「はじめから説明しよう」と、次のようにお話しされました。
魂は、知る必要のあることはすべて知っている。隠されていることは何もないし、知らされていないこともない。だが、知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。

「自分が寛大であることを知っていても、寛大さを示す何かをしなければ、概念にすぎない。親切であることを知っていても、誰かに親切にしなければ、自意識があるだけだ」

自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ。概念が体験にならないかぎり、その概念は推測に過ぎなくなる。わたしは長い間、自分について推測をめぐらしてきた。あなたがたやわたしの記憶を合わせたはるかに遠い昔から、この宇宙が宇宙の時間で経てきたよりも、もっと長く。これで、わたしがわたし自身を経験しはじめたのがどんなに最近か、わかるだろう!」

最後の一文は理解されにくいかも知れません。
私たちは、すべてが神の分身です。かつてビッグバンのとき、神は体験をするために、あらゆるものを生み出されました。
「魂は体験したがっている」という神さまの言葉は、いつも私の胸に残っています。
どのように不幸に思えることも、逆に喜びがいっぱいに感じられる経験も、すべては「経験したがった魂」がそうさせたものですから、究極にはすべての出来事を祝福すべきなのだろうと(冷静で、客観的にではありますが)思えます。

私たちのあらゆる体験は、神の体験と同じです。

ちょうど最近、ディーパック・チョプラ氏の本を読んでいて、チョプラ博士は、とてもロマンティックに次のように書かれています。

宇宙(神)は私たちの体を通して動き、呼吸し、自分自身を見ている・・・私たちの目を通して、宇宙(神)は自分自身を星々として見ている・・・私たちは宇宙(神)の目であり耳です。宇宙(神)は自分自身をこんなにも多くの生き物を通して見て、味わって、嗅いで、感じて、聞いています。私たち人間や、ミツバチや、鳥や、羊や、蝶を通して。・・・

次回は、宇宙が生まれる前の神さまについて、お話ししたいと思います。

上に

「神さまのお話し」の前回は魂について、お話ししました。

魂は「学ぶため」にこの世に誕生するのではなくて、「体験する」ために、肉体に宿ります。

「魂は知る必要のあることは、すべて知っている」と、神さまは言われました。

カウンセリングも、「答えは、クライアントさんが知っている」と信じることが大切です。
「知っていらっしゃる」と信じるからこそ、何かを「教える」「指導する」というような上位の立場に立たないように、気をつけています。

そうしてお話しを伺っていると本当に、自分はどうすれば良いかという具体的な答えを、私に話してくれるのです。

悩める人は答えを知っていながら、なかなか自分の行動を変えられず、新たな体験をする勇気がないために悩んでしまうのだと、カウンセリングをするうちに気付かされました。
それを意気地なしとか、弱虫だとか思うことは、決してありません。
私も含めて誰もが皆、大小の差があったとしても、変化を恐れます。

しかし魂は、体験したがっています。
ですから人生は常に、いやがおうでも変化を与えてくれます。

「自己についての偉大な概念を偉大な体験に変えたい、それが魂の唯一の望みだ」

「概念が体験にならないかぎり、その概念は推測に過ぎなくなる。わたしは長い間、自分について推測をめぐらしてきた。あなたがたやわたしの記憶を合わせたはるかに遠い昔から、この宇宙が宇宙の時間で経てきたよりも、もっと長く。これで、わたしがわたし自身を経験しはじめたのがどんなに最近か、わかるだろう!

と、神さまが言われました。

ニールさんは、質問をされました。
「あなたがご自分を経験したのですか?」と。

神さまが神さまを経験するとは、どういうことなのでしょうか。

それを知るには、宇宙が生まれる前の神さまの時代から順番にお話しすることが必要になります。

「まずはじめにあったのは、『存在のすべて(神)』、それだけだった。ほかには何もなかった。その、『存在のすべて』は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら、『存在のすべて』───あるのはそれだけで、ほかには何もないから、ほかに何かがなければ、『存在のすべて』も、ないということになる。『存在のすべて』は、裏返せば『無』と同じだった。
これが、時のはじめから神話が語りつづけてきた、『すべてであって/無である』ということだ。
さて、『存在のすべて』は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、『存在するすべて』であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。そこで、自らを体験したいと、激しく望んだ。すばらしいというのは、本当はどんな感じなのか、知りたがった。だがその時点で、それは不可能だった。なぜなら、『すばらしい』という言葉そのものが、(比較対照があることで生まれる)相対的なものだったから。『存在のすべて』は、すばらしくないとはどういうことかが分からなければ、すばらしいとはどうんなものかを知ることができなかった。否定があってはじめて、肯定があるからだ」

宇宙が始まる前、神さまはたった一つで、他に比較対照が何もなかったので、「有りながら、無い」という状態でした。
そこまで、ご理解いただけたと思います。

神さま(純粋、見えない、聞こえない、観察できない、ほかの誰も知り得ない)は、「ほかには何もない」ということのみ、知っていました。
そして「もしも比較対照の規準が何かあるとすれば、それはわたしの内部に作ることができる!」と、神さまは気付かれました。
これが「すべてであって/ない」「わたしであり/わたしでない」ということなのだそうです。

神さまは、「一部は全体より小さいはずだ。それなら、自分を分割すれば、それぞれの部分は全体よりも小さいのだから、残る全体を振り返って、そのすばらしさを知ることができるだろう」と考えました。
そこで、神さま(存在のすべて)は、自分を分割しました。

栄光の一瞬に、『これであるもの』と、『あれであるもの』とになった」
「こうして、突然に三つの要素が生まれた。『ここにあるもの』『あそこにあるもの』『そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの(無)』つまり、あらゆるものを包み込むのは『無』である。空間を包含するのは、非空間(無)である。部分を支えるのは全体(無)である」

上記の栄光の一瞬は、科学者の言うビッグ・バン仮説なのだそうです。

こうして神さまは、比較対照を生みだして「体験」をするために、宇宙を創られました。

次回は、相対的な世界・・宇宙を生んだ神様の、続きのお話しを書きたいと思います。

上に

前回は「ビッグバン」について、お話ししました。

宇宙には「神」しか存在しなくて、「存在のすべてである」という理由で「無」でもあった神は、自分を小さく分けて「比較対照」を造ることで三つの要素を作り出しました。

「栄光の一瞬に、『これであるもの』と、『あれであるもの』とになった」
「こうして、突然に三つの要素が生まれた。『ここにあるもの』『あそこにあるもの』『そしてここにもあそこにもないが、こことあそこが存在するためには存在しなければならないもの(無)』つまり、あらゆるものを包み込むのは『無』である。空間を包含するのは、非空間(無)である。部分を支えるのは全体(無)である」

とのことでした。

こうして神さまは「比較対照」を生み出し、強く望んできた「経験する」ということを実現させたのです。

ビッグバンについて、あれから科学雑誌を読む機会があり、科学者たちの諸説を知ることができました。
科学者たちによると、まだ宇宙になる前、突如「何もない」ところから「大爆発」が起こり、1秒もしないうちに様々な原子が生まれ、急速な勢いでふくらみ始めました。そして、現在でも宇宙はふくらみ続けていて、遠くの星はどんどん遠くに離れていっているそうです。詳しく読んでいくと、あまりにも壮大で不思議な、宇宙の創生。神のなせるわざとしか、言いようがありませんでした。

ところで、私たち人間は聖書に書いてありますが、「神に似せて創られた」とのこと。
しかし人間以外の動物や植物はもちろん、例えばパソコンやその部品、ノートやマグカップなども、すべて神の一部に間違いありません。
「物を大切にすること」は、神さまを大切にすることであり、何でも捨てるときには感謝して捨てるべきだと、改めて知らされました。
捨てられた物は灰となり土となって、再び木の栄養分になるなどして、地球や宇宙の中でリサイクルされていきます。・・・

神さまはよく「無」とか「空」、「ゼロ」という言葉でも表されますが、それは正確ではないと、言われています。
先ほど書きましたように、あらゆるものを包み込む「無」ももちろん神さまではありますが、包まれているあらゆるものもまた神さまなのです。

「神とは、『存在のすべて』であって、同時に『すべてでない』ものでもある、そう信じる者は正確に理解している」


ビッグバンにより、すべての要素が出現したので、時が生まれました。
「なぜなら、物はまずここにあって、次にあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ」

「見える部分がそれ自身を定義づけ、各部分が『相対的』になったように、見えない部分も定義づけられ、相対的になった」

「神は、愛が存在するためには───そして純粋な愛である自分を知るためには───対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。正反対のものが存在する必要があった。」

「そこで、神は偉大なる極───愛の絶対的対極にあるもの、愛ではないあらゆるもの───を創り上げた」

「それが現在、『不安』と呼ばれるものだ」

「『不安』が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在しはじめた。」

これは、「不安(悪)がなければ、愛もない」という教えです。
私たちはたくさんの不安を経験する(知る)ことで、愛を経験する(知る)ようになっているのです。
ですから、不安要素の強いかたは、これからどんどん愛を知るでしょう。
愛をたくさん知るかたは、すでに覚えていないかも知れませんが、数多くの不安からくる経験を乗り越えてきたはずです。
すべての不安を乗り越える術(すべ)を知って始めて、純粋な愛となります。
そうすると「師」とか「人生のマスター」とか「アセンデッドマスター」などと呼ばれ、イエス様のように生きられるようになるのでしょう。

人間は、不安から生まれる様々なもの・・・「恐怖」や「悲しみ」などを人格化して、「悪魔」と呼びました。また、純粋な愛を人格化して、「神」と呼んだとのことです。

神さまはこうして、宇宙を分割することによって、見えるものと見えないものを含めて現在存在するすべてのものを、純粋なエネルギーから創り出しました。

次回は「創造者(神)である自分」を経験したい神さまのお話しを、したいと思います。

上に


前回は、ビッグバンで生まれたものについて、書きました。
ビッグバンは「神自身」の爆発であり、神は何もないところからすべてを生み出しました。

これであるもの、あれであるもの、これでもあれでもないがこれとあれが存在するために必要な空間、時間、不安、そして最初からあった愛。

神さまはすべての物や心をも、純粋なエネルギーから創りだしました。

そしてそれは、神が強く願った唯一のこと・・・“経験”をするためでした。

神さまはまた、無数の小さな部分・・・霊(いのち)を創りだしました。

「自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を作って自分を体験的に知ることだった。創造者が『創造者である自分』を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで私は、自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた

こうして霊(いのち・人間達)のすべてに、創造する力が与えられました。
創造する力だけではなく、神と本質的に同じであるように、人間を創られました。

「本質が同じである。わたしたち(神と人間)は、同じものでできている。わたしたちは『同じもの』なのだ!同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている」

「わたしがあなたがたを創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、自分を知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい」
「これは驚くほど単純に見えるかも知れないが、同時に非常に複雑でもある。なぜなら、あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしではないものとしての自分を知ることだからだ」

人間は神としての自分を知る前に神から離れている自分を経験しなければ、本当の意味で自分が神であることを知ることができません。
神さまが霊たちに「あなたは神の一部であり、神の子であり、神である」とただ告げても、霊たちは満足しませんでした(神ご自身がそうであったように)
「何かを知ることと体験することとは別のものだ。霊の子供たちは自らを体験的に知りたがった。知識として知るだけでは、霊の子供であるあなたがたには物足りなかった」

そこで神さまは、創造されたばかりの物質的な宇宙に、純粋な霊たちを送り込みました。それは、霊たちが概念として知っていることを、体験的に知るため、でした。そもそも神が物質的な宇宙秩序を創ったのも、宇宙を律する相対性のシステムを含めて、すべての創造の理由は、概念として知っている自分のことについての知識を体験的に知るためでした。

「物質的な宇宙に入れば、自らについて知っていることを体験できる。それにはまず、対極を知らねばならない。・・・たとえば、背が低いということを知らなければ、背が高いということは分からない。やせているということを知らなければ、太っているということは分からない」

「つきつめて言えば、自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、すべての物質的な生命の目的だ。自分自身を『こうである』と定義するのは、自分ではないものがあってこそなのだ」

次回は、私たち人間が「つきつめた自分を知る」つまり「創造者(神)としての自分を知る」方法について、お話しします。

上に

前回は、神さまが自分自身から「無数の部分(霊・いのち)」を作り出し、自分(神さま)と同じ本質を、その部分たちに与えられたことを書きました。
人は、神さまと本質が同じであるということです。

また、「無数の部分」(魂)は、概念として、自分自身が神であることを知っているとのことでした。
こちらを読む人たちも、心のどこかで、計り知れない自分のパワーに気付いているはずです。

さらに、「概念」として知っていることを「体験」として知るために、人は自分が神であることを忘れる必要がありました
相対するものを知らなければ、自分が神であるという体験ができないからです。
短さを知らなければ長さを知ることができず、暑さを知らなければ寒さを知ることが出来ません。年中寒い空間に生きる人は毎日寒いのが当然であり、寒さはもはや寒さとして知覚されず、「日常的な普通のこと」になってしまいます。
相対するものを知らなければ、愛でさえ、素晴らしかったり、喜びであったりしません。相対するものを知らなければ、本当の愛の素晴らしさを知ることができないのです

それゆえ、神さまは、神の本質である「愛」と逆の位置にある「不安」を、分割した自分自身(人たち)に与えました

今回は、私たち人間が「つきつめた自分を知る」つまり「創造者(神)としての自分を知る」方法について、お話しします。

私たち人間(神さまの一部分)は、「不安」を与えられましたが、同時に神であることを「忘れる」ことにしました。
神である記憶を捨てることで、「自分が何者であるかを選べる」ようにするためです。

忘れてしまったことで、単に「愛に目覚める」だけでは、神の本質を取り戻すことが出来なくなりました。
忘れてしまったことで、「選ぶ」という心の力が必要になったのです。

つまり、「自分が何者であるかを選ぶ」ことが必要になりました

私たちは「自由意志」を持っていると、あちらこちらで聞かされます。
その通りなのです。
人間は、何を「選ぶ」かで、神である自分になることもできますし、不安なまま周囲に翻弄される人生を送ることもできます。
ここで必要なのは、自分の心の力、決定する力、選択する力です。

「良いものを選ぶ力」がなければ、いくら私たちが自分自身を「神の一部である」と知っていても、その素晴らしさを本当に知ることはできません。

「神との対話」の中には、神さまの優しい言葉が書いてあります。
「あなたがたはどんなに努力しても、わたしの子どもでなくなることはできない。
 だが、忘れることはできる」

私たちは、何があっても神さまの一部分ではあるが、(選択して)忘れているのだと言われています。

「あなたがたは、これまでも、そしてこれからもつねに、神聖なる全体のなかの部分、身体の一部、手足、メンバーだ。だからこそ、全体に戻ること、神に戻ることは(英語で)「思い出すこと(remembrance)」と呼ばれる。あなたがたは自分が何者であるかを思い出す。あるいは自分の各部を寄せ集めて、自分のすべてを、すなわちわたしのすべてを体験する」

誰でも、自分が何者であるかを、必ずいつかは思い出すということが、ここには書いてあります。そして神である自分を体験すると。

「したがって、地上でのあなたがたの仕事は、自分が何者であるかを学ぶことではなく、思い出すことだ。そして、ほかのみんなが、何者であるかを思い出すことだ。だから、ほかのひとにもそれを気付かせること、思い出すようにしむけることも大きな仕事のひとつだ」

「いのちの真実を知っているすばらしい教師はみんな、そうしてきた。それが、ただひとつの目的だから。魂の目的だから」

今日こちらに書いた中で重要なことは、「選ぶこと」と「思い出すこと」でした。それから「他の人にも思い出すようにしむけること」です。

○「選ぶ」には自分の心の力が必要

○「思い出す」には静かにして自分自身に問いかけ、耳を澄ますことが必要

○「人に思い出すようにしむける」には、人の中に、光の(神である)部分を見てヒーリングを提供することや会話をすることが必要

であると、私は考えています。(別の手段でも、これらは可能でしょう)

次回からは、世界に悪いものがたくさんある現状について、その理由を神さまがお話しされています。

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